2012年7月29日

Shapes That Go Together

ファンからの提案でa-ha.comが“今週のビデオ”を発表するようになったのは春頃かだったかな?良い週末を!と、Facebookツイッターで金曜日に紹介されています。

オリンピック開幕にちなんでか、今週のビデオはShapes That Go Together。

リレハンメルパラリンピックのテーマ曲で、長野五輪の前だったことから日本には全くと言っていいほどニュースが入ってきませんでした。
この曲は日本でも普通にシングルがリリースされたけど、ノルウェーのシングルには付いていたパラリンピックのマークはありませんでした。開会式でのパフォーマンスは過去にYouTubeで見たことがあるので探してみたけど、こちらはいつの間にか消えています。

80年代半ばから突っ走ってきたa-haはこの後しばらく休眠状態になり、3人それぞれが違う活動へ。この頃は来日公演もなく、ギャッツビーのCMシリーズも確か93年には終わっていたので、今のようなネットのない時代、2000年の再来日公演までは本当に何も見かけなくなっていただけに寂しかったです。

他にも日本で見られなかった大きなイベントの1つに、2009年の世界陸上ベルリン大会がありました。
ブランデンブルク門でのライブパフォーマンスは日本で全く紹介されず、公式テーマソングだったFoot of The Mountainは(CDにはシールが貼ってあったものの)存在すらなかったような扱いで、日本独自のテーマソングが毎日流れていたのには本当にがっかりでした。
これも他の動画があったような気がするのですが今は見つかりません・・・

Take on Meの方は画質の良い動画がYouTubeで見られます。

ロンドンオリンピック真っ最中の来週は何のビデオをピックアップするのかな、と思いつつ、YouTubeのa-haチャンネルでプロモーションビデオからファン撮影の2010年ライブまでオフィシャルに整理してくれているので、時々好きな動画を見ては楽しんでいます。

日本ではよく不思議に思われますが、海外のライブでカメラをチェックされることは最近ほとんどなく、コンパクトカメラなら普通に撮影できることが多いです。a-haチャンネルはモートンのソロまでまとめてくれているので、Flickr( http://www.flickr.com/groups/a-ha_dotcom/pool/http://www.flickr.com/groups/morten-harket/pool/ )の写真を含め、最初からファンは撮影するもの、という前提でいるようですね。
最近は携帯やスマホもあるのでカメラだけ取り上げても仕方ないのかもしれませんが、セキュリティのための荷物チェックはありますし、さすがにコンパクトを越える大きなカメラは止められることもあるようですので、ダメだと言われたら素直に諦めた方が良いでしょう。トラブルが起これば監視が厳しくなり、後々まで影響する可能性もあります。
これからもオープンに楽しめますように!

2012年7月21日

2011年7月22日

ノルウェーでテロ事件が起き、被害者や遺族、招待者のみを対象に翌月(8月21日)行われた追悼コンサートの会場は、a-haのファイナルコンサートも行われたOslo Spektrum。この日だけa-haが再結成された。
a-ha.com
でも紹介されたし、ネットで生中継されたStay on these roadsを見た人も結構いると思います。
現在NRKのウェブサイト(a-haは01.13.45頃から。リレハンメルオリンピックで賛歌を歌ったシセルが最後)でコンサートをフルで見られるようになっていますが、23日までの限定公開のようです。
a-haの部分はコンサート終了後すぐにアップされ、個人的には痛々しくて繰り返し見ることはないのですが、リンクは貼っておきたいと思います。

この時テロ事件についてはa-haとしてコメントを発表したものの、2001年9月11日に自宅のあるニューヨークにいたポール、最近のインタビューで少し話したモートンはこの時他にコメントを出さず、ギャラリーの準備をしていたマグスだけが心情を明かしました。
マグスは自分の作品で新しいギャラリー(Stolper + friends)をオープンさせる予定でしたが、事件を知って急遽プレス・リリースを発表。当初はクリスマスの時期に予定していた、蝶を題材にしたダミアン・ハーストの“The Souls”に展示を変更しました。

2011年8月6日付VGに掲載されたマグスのコメント内容

感覚を失い、1週間テレビにくぎ付けになって、言葉では表せないほどの悲劇を伝えるニュースを吸い込んでいた。これからのことを考え始めた時、オープニングに予定していた作品は合わないということがはっきりした。
マグス自身の入院経験が出発点となり、彼はアーティストとして病院のシーツをキャンバスに使った。1年がかりで一般的な人の弱さをテーマに作品に取り組み、病院での状況、特に苦痛や無力感の意味をこめた。この状況で誰かを責めるような展示は作りたくない。
Futura Plus(=Future Plus、予定していた展示のタイトル) - この展示を表に出すかどうかは分からない。自分の作品をキャンセルするためにギャラリーをオープンさせるのは皮肉だけど、今はこれが正しいことなんだ。僕にとってはイメージが大切で、作品を見せることは重要じゃない。
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ギャラリーは予定通り2011年9月1日にオープンし、この時出せなかった作品は11月にスウェーデンのUnder stor pressで、他のアーティストの作品と一緒に展示されました。

このギャラリーについてはa-ha-live.comがもう少しマグスのコメントを載せています。

特に自分のギャラリーを始めようとは望んでいなかったけど、(STOLPER+FRIENDS を共同で運営するギャラリー運営者、イギリス人のPaul Stolperとノルウェー人のHugo Opdalの)2人とは何年も一緒にやってきたから、前のギャラリー(Trafo)が去年閉鎖された時に自然とアイデアが出てきた。
最初はクリスマスが近い頃にダミアン・ハーストの新作展示をする予定だったけど、急遽変更でバタバタしてるよ。きれいな蝶は魂の旅と再生の象徴でもあるので(この時期に)非常に合っていて、“The Souls”はPaul Stolperとのコラボレーション。(自分の作品より)ずっと今に関わって適しているよ。
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蝶がきれいだったギャラリーの外観は画像が見つかりませんが、中の展示はこちらで何枚か写真を見られます。

世界で一番大きなホルン

6月24日、ノルウェーでアートフェスティバル(Go With the Flø, 2012)の幕開けを飾ったのはマグスの巨大ホルンだった。
運べるサイズで世界最大ということだけど、とても“Mobile”と呼べるものではない。

当日の記事によると、トラクターと牛(+造船所)の音をミックスさせた大音量に驚いて近くにいた牛が走り出したそうですが、見ていた人達はかなりノンビリした様子。
マグスはホルンの横にしゃがみ込んで演奏(?)し、最後は歩きながら拍手に答えて挨拶していました。
http://vimeo.com/45273308 で、もっとマグスの様子が見られます。
この日は天候にも恵まれ、フェスティバルには2,000人以上が集まったそうです。

a-haの解散以降、一番幅広く忙しいのはマグスですが、不定期なブログではとてもカバーしきれません。
オフィシャルページはメモ用にリンクを貼っておこうと思いますが、更新が少ないのと情報が分散しているので、よくfacebookや a-ha-live.com のお世話になっています。特に最近はファン同士の情報共有が一番早いようなので・・・

マグスのオフィシャルサイト
ツイッター
ギャラリー
Apparatjik

2012年7月15日

Martin Halla、EPリリース

7月2日、Martin HarraがEPをリリースした。
The Voiceのメインホールで歌った曲とマグス(& a-haのアルバムLifelinesで14曲目)のDragonflyを加えた5曲を収録。
ノルウェーのユニバーサルからリリースされましたが、ドイツのアマゾンでもダウンロード版を取り扱っていて試聴もできます。a-ha-live.comによるとレコーディングをしたロンドンで手応えがあったことを、マグスはTVの特別番組で話していたそうです。


The Voiceのハイライトや舞台裏、マーティンとマグネのインタビューを含む、1時間の特別番組。
・ ブラインド・オーディションで(2人のメンターから)マグネを選んだ理由は?
マーティン: 彼が音楽以外に活動していることを考えた。彼は美術の世界で抽象的な作品に取り組んでいて、僕は多くの抽象的な音楽を作ってきたから、その点でつながれると思ったんだ。
・ このコンテストで自信を深められた?
マーティン: すごく良かった。自分のしていることに自信はあるけど、それが認められて、メンターにも(一般の)人達にも受け入れられたことは非常に良い経験だった。

インタビューの終わり頃、マグネが今後について聞かれました。

マグネ: 夏から秋の初旬にかけてアルバムのレコーディングをするよ。もうスタジオで過ごしてEPは録音した。昼も夜も長時間スタジオにいて、僕には長年のライフスタイルだけど、ものすごく刺激に満ちていて、スタジオの中は素晴らしい雰囲気だった。
マーティン: 全くその通りだった。
・ マーティンに対する望みは?
マグネ: 無限だけど、僕が自分を制限できないんだよね。
・ じゃ、世界を相手にする野心がある?
マグネ: うん。最初から言ってることだけど。うまくいかなかったとしても、少なくとも頑張ったと言える。だけどロンドンで彼のことを聞いた人達からたくさん連絡があって、ある程度歌を聴いていた。僕は咬みつくと決めたらピットブルみたいに顎ががっちり動かなくなるんだ。
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ピットブルの話は以前も出てきたけど、そんな粘り強さがあったから今まで頑張ってこられたんでしょうね。a-haはヒットするまでかなり苦労したけど、少なくともマーティンは極貧生活に耐える必要はなさそうです。現在24歳の彼が25年後どうなっているか、これからが楽しみです。

2012年7月9日

4月14日付Aftenposten

6月30日はドイツのサマーフェスティバルにモートンがソロで出演した。
オフィシャルサイトの情報では日本時間の2:20am頃パフォーマンス、3:45am頃にはインタビューの予定だったけど、結局開始は30分近く遅れ、4:30am過ぎまで待ってみたけど残念ながらインタビューはありませんでした。

パフォーマンスの方は思った通りウェブサイトで見られるようになり、YouTubeにもアップされていました。


セットリストは新曲とa-haが5曲ずつ。

Burn money burn
I’m the one
Keep the sun away
Move to Memphis (a-ha)
Forever not yours (a-ha)
Lightning
We’re looking for the whales (a-ha)
Stay on these roads (a-ha)
Scared of heights (ここで時間切れ。ちょっとやりとりして最後の1曲に)
Foot of the mountain (a-ha)

a-haの曲を歌うことについては以前インタビューの中で本人が話していたことがあるので、長いですがついでにそのインタビューもまとめておきます。


4月14日付Aftenpostenのインタビュー

ドイツにいた4日間でどの都市を訪問したか?
- 分からない。
どのラジオ局で話した?
- 覚えてない。
分かっているのは疲れ切っている、ということだけ。プロモーション活動については、首に鎖付けて雇われたようなもの、と言います。
タブロイド紙に必要なもう1枚写真を撮ったら終了。ポールやマグスとはうまくいってないんじゃないか、とか、Take on meを歌う時はどんな気分か、などと聞かれることのない家に帰れる。


ハンブルクの植物園で;
- 作りもののジャングルにいるサルみたいにポーズを取るようなことはしないよ。80年代にやってきたし、自然に見えない。
カメラマンにそう言い、しかめっ面で新聞の背景になる密集した植物を見た。

- こういうのは好きじゃない。気持ちが10年も年を取るように感じるよ。
(中間的な解決策として)植物の間を通り過ぎ、じっと立とうともカメラを見ようともしない。
笑ってくれる?-カメラマン
- 写真撮れば
じゃ、笑って
- 笑わないでって言ってよ。僕は君に言われて歌ったり踊ったりするタイプじゃないんだ。

ハンブルクでの18時間前、彼のマネージャー(Harald Wiik)からハイアットホテルに21:30に来るよう言われていた。部屋番号425に本人がいるのでフロントで呼び出し、何か問題があればマネージャーに連絡する。
(フロントでのやり取り)
 425号室にかけていただけますか
 どなたとお話しされますか
 モートン・ハルケットです
フロントは画面を確認し、その名前の人ではないと言ったのでマネージャーに連絡。
(マネージャー)彼は違う名前で泊まっているけど、絶対その名前は明かさないで。
確認が取れたフロントが部屋を呼び出すと、電話口から聞き慣れた声が応えた。


新しいアルバム、Out of my handsのレビューはどのメディアもあまり良くなかったが、モートンにあまり読んでいる時間はなかった。最初のソロツアーはシベリアを皮切りにロシア、ベラルーシ、ドイツ、スイス、ベルギー、フランス、イギリス。夏が終わればオスロ、ブラジル、アルゼンチン、チリが控えている。どれもa-haが強かった地域で、モートン1人ではどうなるか?インタビューの時間を取ったメディアはどこも1982~2010年のバンド活動があったのが理由。モートンのウェブサイトにはThe voice of a-ha。


マネージャー: 2012年に世間がa-haのいないモートンを受け入れられるかどうかは分からない。反対意見はあるだろうけど、私達はできると思っている。
本人: どこかで始めないといけない。他の2人がいない僕を見るのが難しいことは分かっている。a-haの曲をするとすればポールやマグネと一緒じゃない。自分の曲だけでツアーに出られるか?
数ヶ月後には質問が変わる。a-haのヒットは何曲するか?どの曲をするか?
彼の曲選びの基準は自分の存在、a-haの存在、多くの人の期待を、それぞれ尊重すること。
-曲によっては他の曲より気分良く演奏できる。Stay on These Roadsは曲作りに大きく関わったから楽だけど、Hunting high and lowは初期にポールが作り、自分にとっては3人の力を明確に示したもので、背景には物語もある。みんなで演奏していた時、マグネがものすごくきれいな間奏を作ったんだけど弾いたらそれを忘れちゃったとか、そんなこと。多くの人がこの曲と僕の声を関連づけているけど、(ソロで)すべきかどうかは分からない。
Take on meは?
- それは楽。僕にとってこの曲は他と違う。曲そのものが独立した25年間を生きてきた。

Out of my handsの1つはEspen Lindのヒット曲、Scared of heightsのカバー。スウェーデンのKent(Kärlekens won)を英語バージョンでカバーした曲もある。それでは足りないかのように、Pet Shop Boysから贈られたListening。Pet Shop BoysのWest End Girlsは、1984年にa-haがロンドンに行った頃、あらゆる場所で流れていた。
- Pet Shop Boysの曲はどうしたってレコーディングしたよ。楽しかった。
ノルウェーやスウェーデンの曲をカバーしたり、イギリスから提供を受けたことについて、選択肢が少なすぎたり、もっと個人的なものにしようと苦労したか? - いいスカンジナビアの歌をより幅広いオーディエンスに届けられるかも、さらにa-haではないモートン・ハルケットを受け入れてもらう最初のきっかけになるはず、と話していたそうです。
話を終えたのは真夜中。彼がフリーになるとすぐ女性2人が飛びついてきた。彼は何度かハグをして、それから部屋に戻った。


翌日はメイクアップアーティストのOut Methaに塗ってもらうことからスタート。Methaは80年代半ばにモートンのポスターを貼っていて、“素晴らしい仕事に就けた”と話し、その日はスーツケースを持って彼に付いて回りました。フロントに出ると10~12人の女性がエレベーターの所で待っていて口々にモートンの名前を呼び、サインをもらおうとする人もいたが、そんな時間はなかった。
ラジオ局に向かうミニバスの中で;
- やれる以上やった。何時間も立ってサインもするけど通り過ぎてもトラブルはない。誰でも平等にするよ。要求に対応しきれないことは、自分ではどうしようもないことだと受け入れたんだ。
どこででも気付かれる?
-いつもだよ。見えないことが多いけど、僕は首に目があるからたいてい避けられるんだ。
母国では安らぐと言うアーティストも多いけど、オスロは安らげる?
- どういう意味かによる。みんなが見ている中、1人座っていられるということならYesだね。有名になれば社会から出て、コミュニティはその人を傷つけて違った目で見る。有名になれば代償は大きい。今は違うけど、そういうものだよ。
自ら選んで(a-haだと)すぐ分かる声を持つ見事な看板として参加したa-haは世界を席巻し、次から次へとヒットを飛ばすことができたが、外見とアイデンティティの問題でもあった。ノルウェー人トリオを襲ったのは全く望んでいなかった絶叫する10代の女の子、失神、ハグだったが、現在52歳で典型的な笑いじわがあり、髪の薄さが目に見えるようになってもやはりモートン・ハルケット。どうやってその外見を維持しているのか?教えられない。(特別何かをしているわけではなく)自分で荷物を持って出かけるのが好きで、庭で落ち葉をかき集めれば簡単に筋肉が付くらしい。
運がいいね。
- それだけだよ。インタビューで何度も体のことを聞かれて話さなきゃいけないけど、気恥ずかしいよ。水から出てくる筋肉質の体をアルバムジャケットに使ったのもかなり恥ずかしいだろうけど、女性の非難はない?
- あまり肌(の露出)はないよ。もっと彫刻っぽい形。

ラジオNDR2は毎日200万人以上の人が聞いている。彼が入るのを見ようと女性2人が階段の手すりから身を乗りだし、男性スタッフの1人はサインを求めた。その数分後、収録が始まった。
a-haのもう2人とはどう?(最初の質問)
みんな聞くし、僕達の間にある敬意や愛情を忘れている。彼らは言葉もなくヨーロッパの半分ぐらい駆け抜けられたし頑固で決意も固いが、Hunting high and low,、Scoundrel Days、Manhattan Skyline、Living a boy's adventure tale、Life Lines、締めくくりとなり、ブリティッシュチャートで5位に入ったFoot of the Mountainを作り上げたこととは別に、バンドの不和で、これ以上一緒いるのが耐えられなかったか。3人のうち1人でもa-haを続けたいと思わなかった?1日で山のように質問された中で、モートンはこれだけ答えようとしなかった。
-そんなことに集中されて疲れ切ってるよ。
コンテストに当選した3人とプログラムマネージャーとの写真撮影があり、伝票にするのと同じように写真や本にサインして別のインタビューに移った。

a-haと過ごした最後の夜はどうだったか。モートンは子供達のこと(みんな自分が誰かは知らないけど、何をするか選ぶことで、自分はこういう人間じゃないと分かっている。)、お金のこと(僕は他のものを信頼するよ。リストそのものはいらない。自分を変えてしまうから。)、気候について(世界が嘆いている。文明は崖っぷちに向かっている。)話した。
モートンは“霧の王子”と呼ばれている。パロディーにされ、冷笑との境界にいる。彼は絡み合った長い思考から話すことが多く、聞き手の注意を必要とする。インタビューしているうち、インタビュアーは彼の目に戸惑いながら、Take on me、ポールやマグネ、ソロアルバムの話を聞こうとする。最後にはうまい言い方だとかいい考えだとか言って終わるか、翌日の新聞に哲学的ハルケットと書いたりして、“僕の話聞いてる?大切なことだよ”とでも言っているような52歳は去っていく。


ここに1時間以上のテープがあるが、“霧”ではない。地球がどう今のようになったか、無から今私達が知っているような文明につながる可能性が全くなかったとしたら - 無から何かになったものは1つしか知らない。歌だよ。人は1日に6千億、1秒に1千万の細胞が死ぬと書いたハンガリーの哲学者、アーヴィン・ラズロ(Ervin László)の話を出した時、彼は少年のように熱心だった。極地で氷が溶け、温暖化が進んでいることを心配し、片付ける時間はわずかしかないかもしれないと懸念している。霧?違う。Take on meのように市場性が高いとされているだけ。そうじゃない。


NDR2を出る所でウェブサイト用ビデオインタビュー。 質問:Take on meを演奏する時の気持ちは?答:座って食べる時、どんな気持ち? 質問:歌ってくれる?答:嫌た。命令されて歌うことはない。僕はメルセデスのエンジニアじゃないし、配管工でもない。インタビューされる時は、引き寄せる感じ。相手がするなら歌うし踊る。 
階段で彼がつぶやくのが聞こえた。お願いマイケル・ジャクソン、ムーンウォークはしないで。


ハンブルクで
彼は最低限の付き添いとドイツ中を回った。ユニバーサル・ドイツの広報担当、VIPガード/ドライバー、ノルウェーから同行したのはマネージャーのハラルド(Harald Wiik)のみ。2人は異なる経歴を持つ。ハラルドは以前ドラマーで、1986年、Take on Meが米ビルボードのトップになった翌年にMoney Talksというバンドとロサンゼルスに渡った。モートンとa-haは裕福で有名になり、Money Talksは落ちる一方。1999年にポール・ワークターのバンド、Savoyのマネージャーになり、2005年にはa-haを引き継いだ。ウィンドブレイカー姿、バックパックを担いだ46歳の彼は、アーティストの後ろを付いて行くが、気まずくはない。モートンがエスペン・リンド(Espen Lind)のScared of heightsをレコーディングしたのはハラルドのアイデア。オスロでのコンサートが記念すべきものになると気付いた時、以前のa-haメンバーに電話しまくり、24時間以内に連絡するよう言ったのも彼だった。私(記事の筆者)もそれで自分達も一緒だと返事ができた。

3人とも“Yes”と即答した。

彼はミニバスの後ろに座ってツアー最後のインタビューに向かったBild紙がレーパーバーンでモートンに会うことになっていた。植物園でモートンは花に興味を示した。
どうして花が好きなの?
- 同類だから。
(疑うように)神様を信じてる?
- 君はウサギみたいに飛ぶんだね!まずは話している神がどういう存在なのか一致しないと。この蘭は混ざっていて本来は一緒じゃない。
“サル”のイメージの後、モートンは撮られるのをかなり嫌がった。車のシートに沈み込んで満足し、プレゼントされた真新しいギターと移動。VIPエントランスを入ると、係の女性はギターを機内持ち込みにできることを確認した。


彼は2008年に一緒になったガールフレンドのInez Anderssonと娘のKarmen Poppiが待つ家に帰る。彼には3人の女性との間に5人の子供がいる。ややこしくない?
-何でも関わっているのが誰かによるね。考え方次第。子供達がどういう状態かが問題で、大人の側はコントロールできる。
別れは辛かった?
-楽だったことはない。正しい方法だと思ったから解決に向けて頑張れたけど、関わった誰に対しても同じじゃない。
家族はがっかりだろう。ミュージシャンとしてノルウェーのプレスはインタビューを予定しているし、彼はまたドイツに行く。


(モートンとハラルドの)2人が並んでいた時、ハラルドが言った。“いい空港だね”
- テーゲル?
モートン、ここはハンブルクだよ。ベルリンじゃない。

週末には新曲を抱えてチャーターでシベリアへ。質問への最初の答え:人々はまだモートン・ハルケットを見られるか?
- 自分がなぜモートン・ハルケットでいたか、には理由がある。しばらくは突然新しい自分が出てくることはないだろうし、角を曲がっただけで新しいモートン・ハルケットじゃない。だから当分そのままでいるよ。